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オールバニ (ジョージア州) : ミニ英和和英辞書
オールバニ (ジョージア州)[す, しゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

オールバニ (ジョージア州) : ウィキペディア日本語版
オールバニ (ジョージア州)[す, しゅう]

オールバニ()は、アメリカ合衆国ジョージア州の南西部に位置するドウアティ郡に位置する都市であり、同郡の郡庁所在地である。オールバニ大都市圏および州南西部の主要都市である。2010年国勢調査で、人口は77,434 人となっており、州内第8位である〔。
== 歴史 ==
現在オールバニ市となっている地域には、以前にクリーク族インディアンが住んでおり、川の近くで火打ち石が見つかったので、火打ち石を意味する「スロナティースカ」と呼んでいた。クリーク族は鏃など道具や武器を作るためにこの火打ち石を使った。
インディアンを強制移住させた後の1836年10月、コネチカット州の事業家ネルソン・ティフトがフリント川沿いに土地を購入して、アメリカ人による開拓が始まった。クリーク族はミシシッピ川より西のインディアン居留地に強制的に移されていた。ティフトはその新しい町をニューヨーク州の州都オールバニから名付けた。どちらの町も航行可能な川の上限に位置していた。1836年にアレクサンダー・ショットウェルが町の区画を引いた。1838年12月27日、ジョージア州議会の法により市として法人化された。
ティフトは長い間町の指導的起業家だった。教育、事業、鉄道を熱心に推進した。南北戦争のときは、海軍の物資を供給し、艦船2隻の建造を支援した。州内の急進的なレコンストラクションに反対し、議会では州内に入ってきたヤンキーカーペットバッガーを馬鹿にした。「南部生まれの者よりも南部人」らしくなったと言われた。戦前の奴隷制度擁護の姿勢と戦後の人種分離支持により、ジョージアの白人特権階級とウマがあった〔Fair, John D. "Nelson Tift: A Connecticut Yankee in King Cotton's Court," ''Georgia Historical Quarterly'' (2004) 88#3 pp 338-374〕。
オールバニの地域は奴隷の労働力を使って土地を切り開き、綿花を栽培して発展した。1840年までにドウアティ郡人口の多数派は黒人となり、その圧倒的多数が奴隷となっていた。綿花プランテーションの市場として、オールバニは川を上下する蒸気船による綿花の積み出し地となった。1858年、ティフトが元奴隷で橋の建造者ホレイス・キングを雇って、川に有料橋を建設した。キングの橋の料金所が今も残っている。
オールバニは既に積出港として重要であったうえにジョージア州南西部で鉄道の重要な拠点になった。町には7本の路線が通った。現在も元の鉄道駅にスロナティースカ歴史遺産会館があり鉄道に関する展示が行われている。
フリント川は町の経済活動と一体ではあったが、しばしば洪水を起こした。1841年と1925年には大きな物的損害が出た。20世紀終盤の洪水が特に大きかった。1994年、熱帯低気圧アルバートによる降雨で起きた激しい洪水で、14人が死亡し、22,000人が避難した。このとき損害を受けたオールバニ州立大学キャンパスの改修と改良のために州は1億5,000万ドルを拠出した。さらに洪水で破壊された家屋に代替するために町の南側に新しい家屋が建設された。1998年、フリント川の水位が35フィート (10.7 m) に達し、町の一部に溢れた。
この洪水のために、市はリバーフロントの氾濫原を商業や住宅用途に再開発することを取りやめた。そこは他の用途で改良されており、川沿いに歩道ができ、支流のクリークの上には新しい水族館が建設された。
1940年、激しい竜巻がオールバニを襲い、死者8名を出し、大規模な損害を出させた。
1906年4月11日、慈善事業家アンドリュー・カーネギーとのマッチングファンドにより、カーネギー図書館が中心街に開設された。当初はジム・クロウ法の下で人種分離された施設だったが、1964年公民権法の成立後にアフリカ系アメリカ人にも開放された。この建物は1985年まで図書館として使われていた。改修を行った後の1992年、オールバニ地域芸術委員会の本部として再開された。
1912年、中心街の郵便局と裁判所の建物が開設された。他にも連邦政府によるプロジェクトが市と地域にとって重要だった。世界恐慌の1937年、フランクリン・ルーズベルト大統領政権下のニューディール政策の一部としてチェホー公園が建設された。

市内の軍事施設が拡大して大きな変化が起こった。アメリカ陸軍航空隊の訓練基地が、市の所有する市域に近い土地に建設され、年間1ドルで航空隊に賃貸された。アメリカ陸軍工兵司令部による基地と滑走路の建設が1941年3月25日に始まった。第二次世界大戦後、1946年8月15日から1947年9月1日の間、飛行場は一時的に閉鎖されていた。
冷戦が始まり、1947年遅くにアメリカ空軍が設立されると、この飛行場は空軍基地として再開され、滑走路が改良された。ターナー空軍基地と命名された。空軍はこの基地をB-52ストラトフォートレスなど重爆撃機の基地に使った。空軍の多くの部隊がこの基地を本拠にした。
その中でも第1370写真地図化グループと、給油・保守機能が中心だった。
1951年、アメリカ海兵隊がオールバニ東郊外部に兵站基地を設立した。1950年代と1960年代、多くの白人の軍人と関連する労働者が町に入ってきたので、白人が短期間だが多数派となった。これは1870年以来のことだった。
1967年、空軍が基地の機能を閉鎖してアメリカ海軍に移管し、アメリカ海軍オールバニ駐屯所と改名された。艦載偵察用ツインジェット機RA-5Cビジランテのほとんど全ての陸上基地となった。この基地は1974年に閉鎖され、市の資産として戻された。
1979年、ミラー・ブリューイング会社が新しい醸造所を建設するために基地跡の一部を買い取った。
1960年、オールバニ市人口は5万人に達した。1961年から1962年、公民権運動の中でオールバニのアフリカ系アメリカ人が重要な役割を担った。公的施設の人種差別を止め、選挙権を獲得し、その尊厳を取り戻すために、抗議と非暴力のデモを行った。南部キリスト教指導者会議、人種平等会議、学生非暴力調整委員会、全米黒人地位向上協会の活動家の支援を得て、アフリカ系アメリカ人と支持者が非暴力を通じた人種差別との戦いを行った。オールバニ市は1963年にジム・クロウ法を撤廃したが、選挙権を確保できたのは連邦法を通じてだった。
軍事基地が減り、鉄道が再編されて、就職機会が減少した。残っていた白人の多くは郊外部の新しい住宅に移転し、1970年代には黒人多数の状態に戻った。貧しい経済と戦うなかで、1988年に一人当たり殺人件数が国内でも最大となり、「アメリカの殺人首都」と呼ばれた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オールバニ (ジョージア州)」の詳細全文を読む




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